死しても名を残し文化面で、そして精神面において後世に影響を与え続ける人がいます。そんな人物は歴史的な評価や印象から、集客力をも持ち生誕の地として故郷を富ませることまでできるかもしれません。しかし、さまざまな国が生まれたり消えたりした何千年もの歴史において、ある時期神さまのように崇められていた人の名も、時の権力者の政策で打倒されたり名誉回復したり、偉人の名さえも歴史の一頁に留まることなく浮き沈みを繰り返すのが中国の歴史です。
現在群雄割拠して星の数ほどある中国茶の中で、一千年ものながきにわたり君臨している晩甘侯(武夷茶)と不夜侯(龍井茶)は、中国茶を考え続けるテーマとして大変興味深い題材です。
なぜ武夷なのか。なぜ龍井なのか。
茶葉(仙遊の茶葉と水都の茶葉)、
産地(学術の都と文雅の都)、
象徴(北苑を凌駕したお茶と最後の王朝が愛したお茶)、
人縁(武夷龍井に付加価値をつけた人縁)、
その他の茶(もうひとつの武夷と龍井)、
海外(貴族が憧れた武夷茶と煎茶家が憧れた龍井茶)、
時代(時代の風が吹いたのは南宋だった)
に分けて自分なりに整理してみました。
仙遊の茶葉と水都の茶葉
武夷
仙人が住むという伝説をもつ武夷山は唐代以前より仏教・道教・儒教の聖地であり、政治に疲れた文人の隠居地でありました。武夷山のお茶はそんな土地柄のせいか、どのお茶よりも早くから精神文化と深く結びついた特別なお茶でした。お茶の名前から歴史の変遷を知ることができます。唐・宋代、その茶は晩甘侯、叶嘉など敬意をこめて擬人化された名前で呼ばれました。
一時期北苑のお茶の一部として埋没してしまったかにみえた武夷茶も、高興がフビライに石乳を献上したことがきっかけで元代1302年、武夷山九曲の四曲に御茶園が建てられ、その地位は不動のものになりました。明・清代以降その名前は岩(産地)の持ち主(主に寺など)によって名付けられ、現在にいたります。他の産地と比べて命名法は同じでも、持ち主のセンスで付けられた茶名は武夷岩茶に特別性を与える独特なものになりました。武夷岩茶の名前の多さは目を見張るほどで、たとえば慧苑岩(武夷の多産地は“三坑二澗”で慧苑坑、牛澗坑、大坑、流香澗、悟源澗)の岩茶名は830もあります。これではその名の茶樹がどこにあるのかさえ分からなくなってしまっているものもあるでしょう。現在武夷岩茶の名前の分類は8に分けられています。
・生息環境によって命名
不見天、石角、水中仙、金鎖匙、過山龍、嶺山梅、半天妖、半天腰、吊金鐘
・形態によって命名
醉海棠、醉貴妃、鳳尾草、玉麒麟、醉洞賓、釣金亀、国公鞭、一枝香、
水金亀
・葉形によって命名
瓜子金、白鶏冠、毛蟹、老君眉、竹絲、金銭草、金柳条、白柳条、倒叶柳
・葉色によって命名
大紅袍、太陽、太陰、緑蒂梅、白吊蘭、水紅梅、黄金錠、状元紅、紅鶏冠
・発芽時期によって命名
不知春、迎春柳、正次春
・香によって命名
肉桂、石乳香、白瑞香、正瑞香、八歩香、四季香、満樹香、正束香、金丁香、一枝香、奇蘭香、千里香、十里香、白麝香、夜来香、月上香、満上香、
満山香、素心蘭、木瓜、玉桂、百歳香
・植えられた時代によって命名
正唐樹、正唐梅、宋玉樹、正宋樹
・特長と神話伝説が結びついた命名
大紅袍、白鶏冠、紅孩兒、水金亀、鉄羅漢、呂洞賓、白牡丹、白観音、水仙、不知春
龍井
「色は翡翠色、香は馥郁としている、味は芳醇、形は美しい」“四絶”と、緑茶として最高の形容を与えられている龍井茶は、杭州に産する緑茶というだけでなく国のお茶とも言うべき存在です。その歴史をさかのぼり唐代、陸羽が書いた『茶経』によると、すでに杭州の天竺寺、霊隠寺でお茶を作っていたことがわかります。北宋代、下天竺(法鏡寺周辺)の香林茶、上天竺(法喜寺周辺)の白雲茶は貢茶として献上されました。特別な製造技術により、扁平で光沢のある姿はまるで碗釘のようだと形容されます。かつて歴史や炒法の違いによって龍井茶は5つの産区に分けられました。獅(獅峰)、龍(龍井)、雲(五雲山)、虎(虎跑)、梅(梅家塢)、中でも獅峰龍井の明前が一番とされました。最近龍井茶は原産地域産品保護規定を取り入れ西湖、銭塘、越州大きく3つの地域に分けて等級をつけるようになりました。杭州は名水の地としても知られ、龍井茶と虎跑泉は“茶水双絶”と賞され愛茶人憧れの的となっています。
学術の都と文雅の都
武夷
経済文化の中心江南と比べ、政治戦略からはまったく関係ない場所にあった福建、それも山地武夷はまさに秘境、仙人の住む山でした。孔子以後中国歴史上最も偉大な思想家であり哲学者であり教育家だとされた朱熹(朱子)が福建崇安県武夷山に学校をつくったのは、南宋の時代(1183年)でした。
朱子が教育所を作ってから、福建では出版がさかんになりたくさんの本(主に科挙受験本)が出版されるようになりました。貧しくても科挙に受かれば天下をとれるという不屈の精神が、福建省が科挙合格者を最も多く輩出した背景にあるのかもしれません。そのような素地がお茶作りにも影響したのでしょうか?武夷山は紅茶と青茶の発祥地として世界にその名を轟かせました。仙人が住むといわれる美しい自然はそのままで、1999年武夷山はユネスコの世界自然と文化遺産(複合文化遺産)に指定されました(杭州西湖も現在申請中だと思われます)。
龍井
杭州は西湖のほとりにある美しい都市で、六大古都(北京、西安、洛陽、開封、南京、杭州)の一つに数えられています。隋煬帝が杭州と北京を結ぶ京杭運河を開通させてから、中国の南北をつなぐ重要な交通と貿易の中心地となりました。北方異民族の国金に滅ぼされた(北)宋が南に逃れ、都を杭州に定めてからは急激に発展し、13世紀末に杭州を訪れたマルコポーロによってその繁栄振りを「世界でもっとも美しく華やかな街」と絶賛されました。以降茶都として中国の茶文化をリードしつづけています。
「上有天堂,下有蘇杭」
北苑を凌駕したお茶と
最後の王朝が愛したお茶
武夷と龍井がお茶の世界でトップに君臨しているのはなぜでしょうか?
もともと昔から名茶としての誉れも高く、そのうえ貢茶であるという勲章を持っています。いくら美味しくてもぽっと出の新しいお茶と比べたら歴史もあり、さまざまな分野の本にも登場しています。そんな条件を揃えた競争相手はそう多くはいないでしょう。追随を許さない地位にいるにもかかわらず、他と一線を劃すブランドになったわけは他と肩を並べる地位をよしとせずに更なる高みを模索し勝機を逃さなかったところにあるような気がします。
その象徴ともいうべきポイントを挙げてみました。
武夷
現在、世界中で飲まれている紅茶や青茶の発祥の地である武夷山は、お茶の聖地と言っても過言ではありません。“茶樹品種王国”武夷山のお茶の中でも象徴的存在“茶中状元”である大紅袍は、天心岩九龍窠にたった4株だけの茶樹を指します。たんなる茶樹ではありません。樹齢400年以上ともいわれる神秘のベールに包まれた茶樹です。
大紅袍という名前の由来はたくさん伝説がありますが、ほとんどは難病に苦しむ貴人に天心寺の和尚さんが大紅袍を差し上げたところ、病気が治って感謝した彼らが大臣にしか着ることが許されない紅袍を茶樹にかけたというものです。産地や茶葉の特徴から名付けられるという一般的な命名方法から考えると、春に出る芽の色が紫紅色であるので、遠くから見るとまるで紅袍がかけられているように見えるからこの名前がついたという説が本当のような気がします。そうは言っても、文雅的な香がする命名は十分に他のお茶とは違うという雰囲気を醸しだしています。
年間収穫量 はわずか800g、一般には流出せず国が管理して国家的行事の折や国賓にのみ供されます。当然非売品ではありますが、一部オークションに出品されます。ある年、大紅袍はたったの20gなのに200万円以上の値で落札されたとの記録が残っています。
龍井
龍井は乾隆帝との深い縁があります。乾隆帝は江南が好きで、江南にある文物収集に意欲をしめし、北京の頣和園を江南風に改修したことでも知られています。その生涯に南巡を6回も行っていますが、その中で4度も杭州に訪れ、龍井茶を題材に詩を詠みました。第一首から第四首の詩の内容の変化を見ると龍井に皇帝が夢中になってゆく様子がよくわかります。
第1次南巡 『観摘茶作歌』
火前嫩, 火後老,惟有騎火品最好。西湖龍井旧擅名,適来試一観其道。
村男接踵下層椒,傾筐雀舌還鷹爪。地炉文火徐徐添,乾釜柔風旋旋炒。
慢炒細焙有次第,辛苦工夫殊不少。王粛酪奴惜不知,陸羽茶経大精討。
我雖貢茗未求佳,防微猶恐開奇巧。防微猶恐開奇巧,摘茶竭覧民艱暁。
(乾隆帝が第1回で訪れた場所は天竺でした。天竺のお茶は龍井茶と一括で呼称される以前唐の時代から貢茶として有名でした。乾隆帝は西湖龍井を賞賛し、お茶作りに従事する人たちの仕事の大変さに感心しています。歴史をふりかえり王粛がお茶を酪奴とさげすんだことを嘆き、陸羽の茶経でも大いに求められるものだと茶文化を称えました。献上茶に対しては徽宗帝のようにならないように自らを戒めています。この詩でもっとも注目すべき点は、皇帝がお茶作りにおける“火巧”の大切さを述べていることです。博識ぶりがうかがえる詩です。)
第2次南巡 『観摘茶作歌』
前日摘茶我不喜,率縁供覧官経理。今日摘茶我愛観,関民生計勤自然。
雨前値貴雨後賎,民艱触目陳鳴鑣。由来貴誠不貴偽,嗟我老幼赴時意。
敝衣糲食曾不敷,龍団鳳餅真無味。
(第2回で訪れた場所は雲栖でした。前日まわりがお膳立てした茶摘み風景を好まず、翌日実際の茶摘みを見てお茶の仕事が大変であることに理解を示し、徽宗帝の時代贅を凝らした龍団鳳餅のようなお茶を戒めています。)
第3次南巡 『坐龍井上烹茶偶成』
龍井新茶龍井泉,一家風味称烹煎。寸芽出自爛石上,時節焙成穀雨前。
何必鳳団誇御茗,聊因雀舌潤心蓮。呼之欲出辨才在,笑我依然文字禅。
(第3回目に乾隆帝は初めて龍井に訪れてお茶を飲みました。産地の水と茶葉で飲むお茶の素晴らしさを詩っています。)
第4次南巡 『再游龍井』
清蹕重聴龍井泉,明将帰轡启華旃。問山得道宜晴後,汲水烹茶正雨前。
八日景光真迅尓,向人花木似依然。斯真侍矣予無夢,天姥 希李謫仙。
(第4回目には乾隆帝は再び龍井を訪れました。このとき獅峰の胡公廟で龍井茶を賞賛し、廟の前にある18株の茶樹を御茶園として封じました。)
武夷龍井に付加価値をつけた人縁
一般人がその生活スタイルや嗜好を真似てみたいと思う文化人や芸能人はどの時代にも存在します。ですから、そんな有名人の文章や発言に宣伝効果があることは現在でもかわりありません。マスコミがなかった昔、彼らのその行動は純粋なものだったのかもしれないし、激しい思惑によるものだったのかもしれません。そして現在残っている記録は偶然残っているものかもしれないし、素晴らしさ故に残されたのかもしれません。可能な範囲でその系譜をたどってみました。
武夷
徐夤
(生没年不詳)福建出身。
唐末から五代にかけての詩人で『全唐詩』には彼の詩が222首収められています。友人から贈られた蠟面茶に、感謝する詩『謝尚書惠蠟面茶』を返しています。「武夷春暖月初圓,採摘新芽獻地仙。飛鵲印成香蠟片,啼猿溪走木蘭船。金槽和碾沉香末,冰碗輕涵翠縷煙。分贈恩深知最異,晩鐺宜煮北山泉。」(武夷の春は暖かく月は満月、新芽を摘んで地仙に献上する‥。)
孫樵
唐代の散文家。
『送茶與焦刑部書』のなかで「晩甘侯十五人,遣侍齋閣。此徒皆請雷而摘,拜水而和。蓋建陽丹山碧水之郷,月澗雲龕之品,甚勿賤用之‥‥」と武夷茶のことを書いています。晩甘侯というのは武夷茶を擬人化した表現です。
陶谷
(903-971)
『荈茗録』は6巻37項目ある『清異録』のなかに収録されている一項目です。その項目は18章を1000文字前後にまとめた作品です。武夷のお茶と思われる記事も見られます。
丁謂
(960-1127)文人政治家。
福建轉運使として貢茶の製造を監督、精巧に作られた美しい40の龍鳳団茶(固形茶)を献上して、皇帝の寵愛を得ることに成功し、晉国公に封じられました。著書には『建安茶録』があります。
范仲淹
(989-1052)宋代の政治家・詩人。蘇州出身。
その名臣ぶりは、自身が書いた『岳陽楼記』のなかの「先憂後楽(民に先んじて憂い、民の後から楽しむ)」という言葉などで後世の人にも知られています。『和章岷従事闘茶歌』の「年年春自東南来,建渓先暖冰微開。渓邊奇茗冠天下,武夷仙人自古栽‥‥」という文章で仙人が植えたとしか思えない武夷岩茶の様子を詠みこのお茶の神秘性を高める役目を果たしました。
梅尭臣
(1002-1060)蘇軾の師である愛茶人。
『得雷太簡自製蒙頂茶』の中で「陸羽旧茶經一意重蒙頂,比来唯建谿団片敵金餅,顧渚及陽羡又復下越茗,近来江国人鷹爪夸双井…(古く陸羽の茶経は蒙頂茶を重んじている。これに並ぶものといえば建渓の茶だけで、一片は黄金にも釣り合う‥‥)」と述べています。
歐陽修
(1007-1072)『唐書』を編纂した中心人物。
政治家・歴史家、そして唐宋八大家の一人として知られる文章家。蔡襄と同じ時代に生きた歐陽修はその著書『歸田録』で小龍鳳団について「凡二十餅重一斤,値黄金二両,然金可有而茶不易得也。」とお金があっても手に入らないほど貴重なものだと語っています。
蔡君謨
(1012-1067) 蔡襄。福建省出身。書家として北宋四大家の一人。
福建轉運使の任につくと、丁謂が作り出した大龍鳳団を改良した小龍鳳団を作って献上し、仁宗皇帝の寵愛を受けました。『茶経』に故郷のお茶が掲載されていないことを常々不満に思っていた蔡襄はさらに茶書『茶録』を執筆することによって、福建省のお茶を一躍歴史の主役的位置に引きあげました。一世を風靡した『北苑』は福建建安鳳凰山にあった龍焙(皇室用製茶工場)のことを指します。この北苑を中心とした周辺から産する団茶は当時、建渓茶、建安茶、龍団茶、龍鳳団茶、北苑茶などと言われていますが、なかには周辺産地(武夷など)の茶葉も含まれています。なにはともあれ、福建のお茶を有名にした功労者です。ちなみに蔡襄は福建轉運使だけでなく杭州の府知事も経験しています。
熊蕃
宋代の文人。福建建陽出身。
著書『宣和北苑貢茶録』は皇帝の御茶園から製造される貢茶についての歴史と製品について述べたものですが、この書によって、御茶園が北苑に建てられたことによって、周辺産地のお茶も北苑のお茶と見なされてしまったことがわかります。最も注目すべきなのは、「太平興国,特置龍鳳模,遣使即北苑造団茶,以別庶飲,龍鳳茶蓋始于此。又一種茶,叢生石崖,枝叶尤茂,至道初,有詔造之,別号石乳。(宮廷は使者を派遣して龍と鳳凰の型をもって北苑で皇室専用の団茶を製造させることにした。これとは別の種類の茶がある。石崖に叢生していて枝葉が非常によく茂っている茶樹があったので石乳と名づけられた。)」という文章です。石崖に叢生していて枝葉が非常によく茂っている茶樹、違うという説があったとしても武夷岩茶に違いないと思われます。
蘇軾
(1037-1101)蘇東坡。宋代の傑出した文学家であり書道家であり政治家。
茶に関する作品を多く残し、中国茶文化の発展に多方面で貢献しました。『叶嘉傳』は武夷茶を葉嘉と擬人法で描いており、叶氏を「叶嘉閩人也,其先処上谷。曾祖茂先,養高不仕,好游名山,至武夷,悦之,遂家焉」と賞賛しています。『詠茶詩』では「君不見,武夷渓邊粟粒芽,前丁後蔡相寵加。争新買寵各出意,今年闘品充官茶」という言葉から二人の官僚(前の)丁謂と(後の)蔡襄が粟粒の芽(武夷のお茶)によって皇帝の寵愛を得て宰相の地位に登りつめたがわかります。
朱熹
(1130-1200)宋代の儒学者・哲学者。
日本ではなによりも「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という格言で知られる朱熹は官を辞した武夷山中に武夷精舎(のちに紫陽書院)という名の学問所を創設し、人生の大半とも言える50年もの歳月を教育に費やしました。父親朱松はお茶好きで『答卓民表送茶』「仿佛三生玉川子,破除千餅建渓春。喚回窈窕清都夢,洗尽蓬蓬渇肺塵。」という詩を詠んでいます。その影響から朱熹はお酒を嗜まずお茶を好みました。武夷山を終の棲家とし九曲の天然石を茶灶として茶事の指導に力を入れました。「仙翁遺石灶,宛在水中央。飲罷方舟去,茶煙裊細香」(仙人が残した石の茶灶が川の中央にある。お茶を飲んで方舟が去ったあともお茶の湯をわかすために焚いた煙がゆらゆらとたなびいている)
許次紓
(1549-1604)明代の文人。杭州銭塘出身。
1600年前後に明代の茶書の中で最も優れていると評価の高い『茶疏』を著しました。出身地のお茶(龍井茶)を褒めるいっぽうで、武夷のお茶の素晴らしさを認めていました。「江南之茶,唐人首称陽羨,宋人最重建州,于今貢茶両地独多。陽羨尽有其名,建茶亦非最上,惟有武夷雨前最勝‥」(江南のお茶は唐代の人は陽羨を一番とし、宋代の人は建州を一番としました。現在でも貢茶は両産地の物が多い。陽羨は名前倒れだし建茶が最高だとは思えない。ただ武夷雨前がもっとも優れている‥)
王草堂
明代の文人。
彼の著書『茶説』では、福建省崇安(武夷山)独特の茶葉製造方法について言及されています。それによって、明代中期に武夷ではすでに青茶(烏龍茶)の製造が行われていたことがわかります。「武夷茶自穀雨摘至立夏,謂之頭春。約隔二旬復摘,謂之二春,又隔又摘,謂之三春。頭春叶粗味濃,二春、三春叶漸細、味漸薄,且帯苦矣。独武夷炒焙兼施,烹出之時,青者乃炒色、紅者乃焙色也‥‥既炒既焙,復揀去其中老叶枝蒂,使之一色。」
蒋蘅
清代の文人。
『雲寥山人文集』のなかで甘氏(晩甘侯、すなわち武夷茶)のことを紹介しています。「甘氏如薺,字森伯,閩之建渓人也。世居武夷丹山碧水之郷,月澗雲龕之奥。」
梁章鉅
清代の文人。
著書『帰田瑣記』の中で武夷茶のことを詳しく書いています。「武夷焙法,実甲天下。浦茶之佳者,往往転運至武夷加焙,而其味較勝,其価亦頓増‥」
袁枚
(1716-1797)浙江銭塘出身。
23才の若さで進士の称号を得て、清廉潔白な役人との評判をとりましたが、32才で官を辞し「随園」と称しました。清朝乾隆・嘉慶に独自の詩世界を展開し、時代を代表する文人となりました。著作に『子不語』『小倉山房詩文集』『随園詩話』があります。晩年武夷に遊んだようすを『武夷山記』に表しましたが、料理読本『随園食単』でも、故郷の龍井と武夷のお茶を絶賛しています。「丙午秋,余游武夷,到幔亭峰天游寺諸処,僧道争以茶献,杯小如胡桃,壷小如香櫞‥‥先嗅其香,再試其味,徐徐咀嚼而体貼之,果然清芬撲鼻,舌有余甘。‥‥故武夷享天下盛名,真乃不忝,且可以瀹至三次,而其味猶未尽。(私は武夷茶を好まなかった。濃くて苦味があり、薬を飲むようであるが所以に。丙午秋、武夷を訪れ幔亭峰天游寺などを参観したが、僧侶や道士が争うようにして茶を献じてくれた。茶杯は胡桃のよう、茶壷の小ささはまるで‥‥、まず香を聞き、それから味を味わう、その素晴らしさをかみしめる。清香と甘い余韻。…武夷は天下に盛名をとどろかせているが、まさにその名を辱めない。三煎いれてもその味なお尽きず。)」
董天工
武夷山出身。清代の役人。
24巻からなる『武夷山志』を1751年に完成させました。現在、武夷茶を知るうえで貴重な資料のひとつになっています。
龍井
陸羽
(733-804)茶聖。
765年にお茶の世界では聖典ともいうべき世界初のお茶の専門書『茶経』を完成させました。その書の中で地元湖州の顧渚紫筍茶を絶賛、このことから顧渚紫筍が貢茶となり湖州顧渚山に貢茶院が建てられたことは有名な話ですが、陸羽は霊隠寺の道標という高僧とも親交があり、杭州を訪れると道標の所に逗留したといいます。そしてそこで『武林山記』と『天竺霊隠寺二記』を著しました。またその影響かどうかはわかりませんが、龍井茶の前身であるそれら縁のお茶が唐代の貢茶として記録に残っています。
白居易
(772-846)中国を代表する大詩人であり大政治家。
白楽天は「茶釜と酒の杓子を手離さない」と形容されるほどお茶を愛した人です。杭州刺史の任期中、灌漑事業として西湖の堤(白堤と呼ばれ名所となっています)を築くという素晴らしい功績を残すいっぽう、西湖のお茶に夢中になり霊隠寺の禅師とお茶をくみかわしたと伝えられています。詩によってお茶の文化的地位を高める役目をした功労者と言っても過言ではありません。
蘇軾
(1037-1101)蘇東坡。中国を代表する大詩人であり書道家であり政治家。
白居易と同様、杭州刺史の任期中、灌漑事業として西湖の堤(蘇堤と呼ばれ名所となっています)を築くという素晴らしい功績を残すいっぽう、文化人として中国茶文化の発展に多方面で貢献しました。杭州を第二の故郷とし、お茶を題材とした詩も多く残しています(『虎跑泉』など)。
陸游
(1125-1210)南宋時代の憂国詩人。
歴代詩人の中で最も多く茶事に関する詩を残したことで知られています。お茶に関する詩の多くは故郷江南のお茶に対する思いが見受けられます。
呉自牧
宋代の文人。
1270年前後に当時の文化を表した20巻に及ぶ『夢梁録』では、第16巻の「茶肆」で龍井茶の地元都杭州での茶館の繁栄ぶりと茶文化についてふれています。
虞集
(1272-1348)元代の大文学家。
最も早く詩歌に龍井茶という言葉を織り込んだ人としても知られています。もちろん杭州で産するお茶のことはそれこそ唐代陸羽の『茶経』から記事が載っていますが、龍井茶という単語はまだ使われていませんでした。
虞集は『游龍井』という詩の中で龍井茶とその風景を描いています。「徘徊龍井上,雲氣起晴晝。入門避沾灑,脱屐亂苔。陽崗扣雲石,陰房絶遺構。澄公愛客至,取水挹幽竇。坐我澀中,餘香不聞嗅。但見瓢中清,翠影落群岫。烹煎黃金芽,不取谷雨後。同來二三子,三咽不忍嗽」
童漢臣
明代の役人。杭州銭塘出身。
当時横行していた倭寇を退けた名臣として有名です。お茶に関する記載を残しています。
田藝蘅
明代の文人。杭州銭塘出身。
父親の田汝成にも『西湖遊覧』二十四巻の著書があります。彼が1550年代に書いた『煮泉小品』は主に水について述べていますが、中で「今武林諸龍泓入品,而茶亦惟龍泓山為最
其他産茶,為南北山絶品,寶雲、香林、白雲諸茶,皆未若龍泓之清馥雋永也‥」と当然地元のお茶も絶賛しています。
屠隆
(1542-1605)
著書『茶説』に龍井のことを特筆しています。「不過十数亩。外此有茶,似皆不及。大抵天開龍泓美泉,山霊特生佳茗以副之耳。山中尽有一二家,炒法甚精,近有山僧焙者亦妙。真者天池不能及也。」
許次紓
(1549-1604)明代の文人。杭州銭塘出身。
1600年前後に明代の茶書の中で最も優れていると評価の高い『茶疏』を著しました。地元自慢をするために書いたのかと思われるほど龍井や杭州の水などを絶賛しています。天下の名山には必ず霊草を産するという一文は武夷山にも通じるところです。
高廉
著書『遵生八箋』から明代炒青緑茶が増えたことがわかります。龍井の記述も見えます。「六安茶,品亦精,但不善妙,不能発香而味苦。茶之本性實佳。如杭之龍泓茶,眞者天池不能及也。山中僅有一二家炒法正精。近有山僧焙者亦妙。」
曹雪芹
(1715-1763)文人。
才能豊かな人物でしたが、なによりも中華文学巨編『紅楼夢』の作者として有名です。お茶に精通し、その知識は『紅楼夢』のなかでもいかんなく発揮されています。作品の中に登場する当時の名茶は多く、もちろん杭州の西湖龍井、福建の鳳随も記載されています。
袁枚
(1716-1797)杭州銭塘出身。
23才の若さで進士の称号を得て、清廉潔白な役人との評判をとりましたが、32才で官を辞し「随園」と称しました。清朝乾隆・嘉慶に独自の詩世界を展開し、時代を代表する文人となりました。著作に『子不語』『小倉山房詩文集』『随園詩話』があります。『随園食単』という料理読本を書くほどのグルメで、お茶の愛好家でもありました。故郷の龍井茶が自慢で、『随園食単』の「茶酒単」では飲むお茶飲むお茶すべてを龍井と比べて評しています。故郷に関する作品も多く、『龍井』と題した詩などもみられます。「龍厭西湖喧,別選蔵珠宅。澄泓一井泉,揺漾半天碧。葉堕鳥銜去,魚行人不隔。時方迎六龍,崖磴加開闢。穿竇濬霊源,爬沙出奇石。瀑布九天来,散作千処白。噴珠隕雑花,洒面乱飛
雪。傾耳声洋洋,琮琤砕環璧。」
乾隆帝
(1711-1799)清朝6代皇帝。
康熙帝・雍正帝と続いた清朝の黄金時代を磐石にした皇帝です。中国歴史の中で最もお茶を特に龍井茶愛した皇帝として有名です。
「君不可一日無茶!」
程淯
清代の文人。
清末北京から杭州へ移り西湖に秋心楼を建て『龍井訪茶記』を執筆しました。1911年に完成しているようですがおそらく未刊となっています。
魯迅
(1881-1936)紹興出身。文学家、思想家、革命家。
「有好茶喝,会喝好茶,是一種清福」は魯迅の『喝茶』という雑文の中の言葉です。魯迅は茶産地に生まれ、お茶を飲むことが彼の一生の楽しみだったので作品にはお茶について多く触れられています。蓋碗で緑茶を飲むのを習慣としていたというエピソードなども残しました。「由這一極瑣屑的経験,我想,假使是一個使用筋力的工人,在喉乾欲裂的時候,那麼給他龍井芽茶、珠蘭窨片‥」
郭沫若
(1892-1978)文学者。
お茶に親しみ、外国の賓客を連れしばしば杭州を訪れました。「虎去泉猶在,客来茶甚甘。名傳天下二,影対水成三。飽覧湖山勝,豪游意興酣。春風吹送我,嶺外又江南。『虎跑水品龍井』より」
毛沢東
(1893-1976)湖南出身。大政治家。
中華人民共和国を建国。中華人民共和国成立後、毛沢東、周恩来、朱徳、鄧小平、江沢民ら多くの国家指導者が龍井茶区を視察しました。特筆すべきは毛沢東主席が40回以上も杭州を訪れたということです。西湖龍井を大変気に入り西湖近くに専用茶園を造らせました。国賓に対する土産も龍井茶でした。
「龍井茶、虎跑水,天下一絶」
周恩来
(1898-1976)紹興出身。中華人民共和国初代国務院総理大臣。
中華人民共和国成立後、毛沢東、周恩来、朱徳、鄧小平、江沢民ら多くの国家指導者が龍井茶区を視察しました。なかでも周恩来は5度も梅家塢を訪れ人々とふれあいました。1972年ニクソン大統領訪中のおり周恩来総理は杭州に招き、龍井のお茶や料理で訪中団を歓待しました。現在、梅家塢村には周恩来総理記念館が建てられています。
老舎
(1899-1966)北京出身。作家。
特に中国の茶館文化をよく表した『茶館』は有名です。小説『趙子曰』で、「薬缶三壺分の龍井茶と十皿の五香瓜子が入る胃袋と鉄製の頑丈な鼓膜。この二つの条件を備えた本物の中国人だけが、二簧の打楽器の滋味を堪能できる」と龍井茶を中国人がよく飲むお茶の代名詞的存在として登場させています。
巴金
(1904- )現代の中華人民共和国を代表する人民作家。
3、40年代たびたび文学界の友人たちと西湖に遊びました。作品にも『西湖』『蘇堤』などがあり、特に『从鎌倉帯回的照片』の“接連下了幾天的雨。傍晩,天空中出現了淡淡紅霞,連柔毛一様的雨絲也絶迹了。我満心希望見到明天早晨的太陽,還和朋友約好明天上午到虎跑去喝茶‥”の部分では、巴金と龍井茶の関係がよくわかります。
汪曾祺
(1920-1997)現代作家。
龍井に対する特別な感情を語った文章を残しました。「祖父生活倹省,喝茶却頗考究。他是喝龍井的,泡在一個深栗色的扁子的宜興砂壷里,用一個細瓷小杯倒出来喝。他喝茶喝得很釅,‥‥我在杭州喝過一杯好茶。1947年春,我和幾個在一個中学教書的同事到杭州去玩。除了西湖景,就是在虎跑喝的一杯龍井。真正的獅峰龍井雨前新芽,毎蕾皆一旗一槍,泡在玻璃杯里,茶叶皆直立不倒,載浮載沈,茶色頗淡,但入口香濃,直透臓腑,真是好茶!只是太貴了。一杯茶,一塊大洋,比吃一頓飯還貴。獅峰茶名不虚傳,但不得虎跑水不可能有這様的味道‥」
もうひとつの武夷と龍井
宋・元・明代3王朝を通じて学問の中心であった武夷、南宋の都であり商業貿易の中心であった杭州、それぞれの特色を引き継いだもうひとつの特別を探してみました。世界で一番早く有名になった正山小種(ラプサンスーチョン)と薬茶です。
武夷
紅茶は18世紀初期に武夷山星村桐木村で生まれました。紅茶の中でも特殊な正山小種(ラプサンスーチョン)には歴史的偶然によって誕生したという伝説があります。太平天国軍の小隊がある日春茶摘みの忙しい季節に茶工場を占拠、茶葉の詰まった袋を敷いて一泊してゆきました。茶葉は一晩中圧力を受け痛めつけられていたので、発酵して変な香を放っています。それをごまかすために職人たちは松の木を焚いて茶葉に燻製香をつけたと言うのです。時を前後して茶葉通関税が導入され、茶商達は自由にお茶の取引が出来るようになりました。これによって、長い間国によって統制されて来たお茶の貿易と経営は、民間の手に委ねられるようになりました。この法律の導入と海外貿易の奨励により、福建省のお茶は黄金時代をむかえることとなります。
杭州
胡慶餘堂は1874年に胡雪岩によって創立され、北京同仁堂と並ぶ中国で最も有名な漢方薬の老舗です。創立者の胡雪岩(1823-1885)は地元杭州出身、名作家高陽の長編小説『紅頂商人』のモデルになったほど有名な立身出世の人です。裸一貫からついには宰相左宗堂を助けて功を上げ、紅頂戴(官吏の制帽につける等級を示す珠。最高の一、二品官は赤い珊瑚)を賜るまでに出世しました。地元一富商となった胡雪岩の名は今でもよく知られており、小説映画テレビ化されています。茶の名産地という土地柄のせいでしょうか、胡慶餘堂は20以上薬茶をあつかっています。慶餘八宝茶、頭痛茶、大海大剤、骨刺鯁喉、鼻竇炎茶、養顔茶、減肥茶、牙痛茶、健胃茶、補腎薬茶、益気薬茶、益精薬茶、壮陽茶、盗汗茶、降脂薬茶、胃炎薬茶‥、当然、地元のお茶を使っているに違いありません。胡雪岩は3年がかりで20の建物からなる大邸宅を築きました。最近江南地方の商家の豪邸に興味のある私は胡故居に行って参りました。ただただ感心してみるしかない素晴らしい庭園式建築物ですが、さすが茶産地杭州の人が造ったお屋敷だなぁと感動したポイントがいくつかありました。あちこちに置かれている雨水が溜まる大きな甕と、高みから庭園を見下ろしながらお茶を飲むためだけの“眺めのいい部屋”。他にもいくつもの趣向があるのだとは思いますが勉強不足が歯がゆい見学となってしまいました。
貴族が憧れた武夷茶と
煎茶家が憧れた龍井茶
武夷
清代に茶葉通関税が導入され、水路と陸路に設けた税関に国の規定した税金を払えば、茶商達は自由にお茶の取引が出来るようになりました。これによって、長い間国によって統制されて来たお茶の貿易と経営は、民間の手に委ねられるようになりました。この法律の導入と海外貿易の奨励により、中国茶はポルトガル、オランダ、イギリスなどの国を中心にヨーロッパの国に広まりました。
海外でもお茶は権力者や文化人に愛されました。なかでも紅茶発祥の地である武夷山で作られた紅茶は特別でした。かの有名な英国の詩人バイロンも武夷茶と題した詩で武夷茶にたいする思いを表しています。この不思議な香を放つ正山小種(ラプサンスーチョン)があるイギリス貴族を夢中にさせたことからもうひとつの有名な紅茶が誕生しました。当時イギリスの外務大臣であったグレイ伯爵が作り出したラプサンスーチョンをお手本にした紅茶はベルガモットで香付けされアールグレイと呼ばれるようになりました。アールグレイという紅茶の名のほうが世界的に有名になった現在でも、イギリスで最も気取った時に飲む紅茶はラプサンスーチョンだという話です。
武夷のお茶はヨーロッパだけに影響をあたえたのでしょうか?そんなことはありません。日本でも珍重されたことが、大枝流芳の『煎茶仕様集』から垣間見ることができます。「本邦の茶は、よろしからず。舶来のものをよしとする。武夷山の茶まれに渡来す、得がたし。其香蘭に似たり。茶少し焙じた後、洗いて急須に入れ熱湯を入れる。洗わなくてもよし。渡来の茶、又賞すべし。」
龍井
杭州が南宋の都となり繁栄を誇った時代、武夷山に朱熹が生きた時代、奇しくも日本では日本の茶聖(陸羽)とも言うべき明庵栄西(1141-1215)が2度の入宋(1168年と1187年)を経て宋の抹茶法をもたらし喫茶の習慣を広めました。栄西が著した『喫茶養生記』は当時の茶文化を知る上での重要な文献となっています。そして、南宋時代にもう一人の日本の禅師南浦昭明禅師が入宋し径山寺で禅を学びお茶や茶道具を持ち帰ったと伝えられています。さらに径山寺には栄西も立ち寄ってお茶の種を持ってかえったという説もあります。径山寺が日本臨済宗の大本山であるということを考えてみても、径山茶が当時の日本茶のお手本になった可能性は捨てきれません。
時を経て、『雨月物語』や『春雨物語』で知られる江戸時代の作家上田秋成は煎茶家としても『清風瑣言』『茶瘕酔言』などお茶に関する文章も書いています。江戸時代の文化人たちがどれだけ中国茶文化に憧れていたかを彼の著書の中からいくつか見つけることができます。『あしかびのことば』では、「このころ適いとまある日、木村ぬしがあしの屋を訪いきしに、あるじれいのまめだちて、茶くだ物などすゝめらる、いともきよらなりや、唐くたものはもろこし人の伝へ委しくて、手つから造りなせしなり。茶は龍井とかや、其名西湖のながめとゝもにたかく聞こえあげて、騒人の思を焦す事、陸氏かともの編るふみらに、をちこち見しりたれど、其香と味ひは、けふなんこゝろむるなりけり‥」これは上田秋成がたびたび訪れた木村蒹葭堂のサロンでのある日のようすを描いています。たまたまサロンに訪れたら、主お手製の本場の製法による見事な中国の茶菓子が出てきた。そして供されたお茶はなんと唐の茶人陸氏の『茶経』で名前だけは知っていた銘茶龍井であった。西湖の眺めと同様、多くの人たちの憧れの的である龍井の香と味は本当に素晴らしい‥。その龍井はどんな龍井だったのでしょうか?大変興味があるところです。『清風瑣言』でも売茶翁が所蔵していた唐製茶瓶図が現在は木村蒹葭堂のサロンにあると書いています。『煎茶略説』では高翁所持の急須が南瓜形の唐物だと書いています。この時代唐物(中国製)の茶道具が貴重であったり、明人の茶書が読まれていたようです。そしてもうひとつ杭州が及ぼした江戸時代の文化的縁に関する史実をつけくわえてみます。十八世紀後半、『解体新書』という画期的書物によって蘭学という新しい学問がわきたっていた頃、中国ではすでに西洋の学術書翻訳が盛んに行われていたので、日本の知識人は蘭(オランダ)語ができなくても、中国語訳によって知識を得ることができたといいます。その中国語訳というのは、細かく言えば文化発信地であり貿易相手である杭州語訳でした。
海のティーロード(海上茶葉之路)
北宋代、朝廷は広州、明州(現在の寧波)、杭州、泉州(福建省の市、武夷の近くです)に市舶司を置き、対外貿易を管理しました。広州と泉州は南洋諸国、明州(寧波)は日本や朝鮮等の国々と貿易を行いました。時代が南宗に移るとその貿易範囲は中東、ヨーロッパ、インド等の国へ広がりました。
泉州は特に(福建)茶を大量に海外へ輸出したことによって、泉州からヨーロッパまでいたる海路はティーロードと呼ばれるようになりました。
時代の風が吹き始めたのは南宋だった
武夷
地元福建建陽出身の熊蕃が著した茶書『宣和北苑貢茶録』は、皇帝の御茶園から製造される貢茶についての歴史と製品について述べたものですが、この書によって御茶園が北苑に建てられたことによって、周辺産地のお茶も北苑のお茶と見なされてしまったことがわかります。最も注目すべきなのは、「宮廷は使者を派遣して龍と鳳凰の型をもって北苑で皇室専用の団茶を製造させることにした。これとは別の種類の茶がある。石崖に叢生していて枝葉が非常によく茂っている茶樹があったので石乳と名づけられた。」という文章です。石崖に叢生していて枝葉が非常によく茂っている茶樹!違うという説があったとしても、それは武夷岩茶に違いないと思わせるような“to
be continued(次回乞うご期待)” が感じられます。北苑という一世を風靡した貢茶が光輝いていた時代エキストラみたいな役をさせられていた武夷のお茶はその名の拘束が弱まった南宋以降、今度はピンとして再び歴史の舞台に登場することになりました。「故建茶産不一,崇建延泉(崇安、建甌、延平、泉州)随地皆産茶,惟武夷為最」そしてとうとう元代、高興が石乳を献上したことがきっかけで武夷山九曲の四曲に御茶園が建てられその地位は不動のものになりました。「其處向為福建人遷徙移民之地,其中不乏閩南人。這些人與閩南茶商、僧人語言相通,自然優先被雇用,有的還被聘到武夷当茶師。久之,一些人便在此地安家,所以至今武夷天心村大多為閩南後裔。僧人、茶商與山民的共同努力,才創下武夷奇跡。」明・清代以降、その名前は岩(産地)の持ち主(主に寺など)によって名付けられ現在にいたります。
龍井
北方異民族の国金に滅ぼされた(北)宋は南に逃れ、杭州に都を定めました。芸術家皇帝として中国歴代一と言っても過言ではない徽宗帝の子である南宋の皇帝高宗は、まるで北方へ持ち去られてしまった文化財産以上の文化を築こうとするかのように、豊かな江南の商業経済を背景に芸術の奨励を積極的に行いました。当時杭州庶民の茶文化に対する意識も格段と向上したことが多くの文章などに残っています。「茶館挿四時花,挂名人画,装点門面。四時賣奇茶異湯,冬月添賣雪泡梅花酒,或縮脾飲暑薬。夜市于大街有車担浮鋪者,点茶湯以便游観之人。茶起之時,需奏楽鳴鼓,非同尋常。『夢梁録』」「明嘉靖二十一年三月,有姓李者,忽開茶坊,飲客雲集,獲利甚厚,遠近效之。旬月之間開五十余所,今則全市大小茶坊八百余所。各茶坊均有説書人,所説皆《水滸傳》、《三国志》、《岳傳》、《施公案》等。『杭州府志』」「呉山茶室,正対銭江,各廟房頭,後臨湖山,仰視俯察,勝景無窮。下雪初晴之候,或品茗于茶室之内,或飲酒于房頭之中,不啻置身于琉璃世界矣。『杭俗遺風』」