| 徐夤 | (生没年不詳)福建出身。 唐末から五代にかけての詩人で『全唐詩』には彼の詩が222首収められています。友人から贈られた蠟面茶に感謝する詩『謝尚書惠蠟面茶』を返しています。 「武夷春暖月初圓,採摘新芽獻地仙。飛鵲印成香蠟片,啼猿溪走木蘭船。金槽和碾沉香末,冰碗輕涵翠縷煙。分贈恩深知最異,晩鐺宜煮北山泉。」(武夷の春は暖かく月は満月、新芽を摘んで地仙に献上する‥。) |
| 孫樵 | 唐代の散文家。 『送茶與焦刑部書』のなかで「晩甘侯十五人,遣侍齋閣。此徒皆請雷而摘,拜水而和。蓋建陽丹山碧水之郷,月澗雲龕之品,甚勿賤用之‥‥」と武夷茶のことを書いています。晩甘侯というのは武夷茶を擬人化した表現です。 |
| 陶谷 | (903-971) 『荈茗録』は6巻37項目ある『清異録』のなかに収録されている一項目です。その項目は18章を1000文字前後にまとめた作品です。武夷のお茶と思われる記事も見られます。 |
| 丁謂 | (960-1127)文人政治家。 福建轉運使として貢茶の製造を監督、精巧に作られた美しい40の龍鳳団茶(固形茶)を献上して、皇帝の寵愛を得ることに成功し、晉国公に封じられました。著書には『建安茶録』があります。 |
| 范仲淹 | (989-1052)宋代の政治家・詩人。蘇州出身。 その名臣ぶりは、自身が書いた『岳陽楼記』のなかの「先憂後楽(民に先んじて憂い、民の後から楽しむ)」という言葉などで後世の人にも知られています。『和章岷従事闘茶歌』の「年年春自東南来,建渓先暖冰微開。渓邊奇茗冠天下,武夷仙人自古栽‥‥」という文章で仙人が植えたとしか思えない武夷岩茶の様子を詠みこのお茶の神秘性を高める役目を果たしました。 |
| 梅尭臣 | (1002-1060)蘇軾の師である愛茶人。 『得雷太簡自製蒙頂茶』の中で「陸羽旧茶經一意重蒙頂,比来唯建谿団片敵金餅,顧渚及陽羡又復下越茗,近来江国人鷹爪夸双井…(古く陸羽の茶経は蒙頂茶を重んじている。これに並ぶものといえば建渓の茶だけで、一片は黄金にも釣り合う‥‥)」と述べています。 |
| 歐陽修 | (1007-1072)『唐書』を編纂した中心人物。政治家・歴史家、そして唐宋八大家の一人として知られる文章家。 蔡襄と同じ時代に生きた歐陽修はその著書『歸田録』で小龍鳳団について「凡二十餅重一斤,値黄金二両,然金可有而茶不易得也。」とお金があっても手に入らないほど貴重なものだと語っています。 |
| 蔡君謨 (蔡襄) |
(1012-1067)福建省出身。書家として北宋四大家の一人。 福建轉運使の任につくと、丁謂が作り出した大龍鳳団を改良した小龍鳳団を作って献上し仁宗皇帝の寵愛を受けました。『茶経』に故郷のお茶が掲載されていないことを常々不満に思っていた蔡襄はさらに茶書『茶録』を執筆するよって、福建省のお茶を一躍歴史の主役的位置に引きあげました。一世を風靡した『北苑』は福建建安鳳凰山にあった龍焙(皇室用製茶工場)のことを指します。この北苑中心とした周辺から産する団茶は当時、建渓茶、建安茶、龍団茶、龍鳳団茶、北苑茶などと言われていますが、なかには周辺産地(武夷など)の茶葉も含まれています。なにはともあれ、福建のお茶を有名にした功労者です。ちなみに蔡襄は福建轉運使だけでなく杭州の府知事も経験しています。 |
| 熊蕃 | 宋代の文人。福建建陽出身。 著書『宣和北苑貢茶録』は皇帝の御茶園から製造される貢茶についての歴史と製品について述べたものですが、この書によって御茶園が北苑に建てられたことによって、周辺産地のお茶も北苑のお茶と見なされてしまったことがわかります。 最も注目すべきなのは、「太平興国,特置龍鳳模,遣使即北苑造団茶,以別庶飲,龍鳳茶蓋始于此。又一種茶,叢生石崖,枝叶尤茂,至道初,有詔造之,別号石乳。(宮廷は使者を派遣して龍と鳳凰の型をもって北苑で皇室専用の団茶を製造させることにした。これとは別の種類の茶がある。石崖に叢生していて枝葉が非常によく茂っている茶樹があったので石乳と名づけられた。)」という文章です。石崖に叢生していて枝葉が非常によく茂っている茶樹、違うという説があったとしても武夷岩茶に違いないと思います。 |
| 蘇軾 (蘇東坡) |
(1037-1101)宋代の傑出した文学家であり書道家であり政治家。 茶に関する作品を多く残し、中国茶文化の発展に多方面で貢献しました。 『叶嘉傳』は武夷茶を葉嘉と擬人法で描いており、叶氏を「叶嘉閩人也,其先処上谷。曾祖茂先,養高不仕,好游名山,至武夷,悦之,遂家焉」と賞賛しています。『詠茶詩』では「君不見,武夷渓邊粟粒芽,前丁後蔡相寵加。争新買寵各出意,今年闘品充官茶」という言葉から二人の官僚(前の)丁謂と(後の)蔡襄が粟粒の芽(武夷のお茶)によって皇帝の寵愛を得て宰相の地位に登りつめたがわかります。 |
| 朱熹 | (1130-1200)宋代の儒学者・哲学者。 日本ではなによりも「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」という格言で知られる朱熹は官を辞した武夷山中に武夷精舎(のちに紫陽書院)という名の学問所を創設し人生の大半とも言える50年もの歳月を教育に費やしました。 父親朱松はお茶好きで『答卓民表送茶』「仿佛三生玉川子,破除千餅建渓春。喚回窈窕清都夢,洗尽蓬蓬渇肺塵。」という詩を詠んでいます。その影響から朱熹はお酒を嗜まずお茶を好みました。武夷山を終の棲家とし九曲の天然石を茶灶として茶事の指導に力を入れました。「仙翁遺石灶,宛在水中央。飲罷方舟去,茶煙裊細香」(仙人が残した石の茶灶が川の中央にある。お茶を飲んで方舟が去ったあともお茶の湯をわかすために焚いた煙がゆらゆらとたなびいている) |
| 許次紓 | (1549-1604)明代の文人。杭州銭塘出身。 1600年前後に明代の茶書の中で最も優れていると評価の高い『茶疏』を著しました。出身地のお茶(龍井茶)を褒めるいっぽうで、武夷のお茶の素晴らしさを認めていました。「江南之茶,唐人首称陽羨,宋人最重建州,于今貢茶両地独多。陽羨尽有其名,建茶亦非最上,惟有武夷雨前最勝‥」(江南のお茶は唐代の人は陽羨を一番とし、宋代の人は建州を一番としました。現在でも貢茶は両産地の物が多い。陽羨は名前倒れだし建茶が最高だとは思えない。ただ武夷雨前がもっとも優れている‥) |
| 王草堂 | 明代の文人。 彼の著書『茶説』では、福建省崇安(武夷山)独特の茶葉製造方法について言及されています。それによって、明代中期に武夷ではすでに青茶(烏龍茶)の製造が行われていたことがわかります。「武夷茶自穀雨摘至立夏,謂之頭春。約隔二旬復摘,謂之二春,又隔又摘,謂之三春。頭春叶粗味濃,二春、三春叶漸細、味漸薄,且帯苦矣。独武夷炒焙兼施,烹出之時,青者乃炒色、紅者乃焙色也‥‥既炒既焙,復揀去其中老叶枝蒂,使之一色。」 |
| 蒋蘅 | 清代の文人。 『雲寥山人文集』のなかで甘氏(晩甘侯、すなわち武夷茶)のことを紹介しています。「甘氏如薺,字森伯,閩之建渓人也。世居武夷丹山碧水之郷,月澗雲龕之奥。」 |
| 梁章鉅 | 清代文人。 著書『帰田瑣記』の中で武夷茶のことを詳しく書いています。「武夷焙法,実甲天下。浦茶之佳者,往往転運至武夷加焙,而其味較勝,其価亦頓増‥」 |
| 袁枚 | (1716-1797)浙江銭塘出身。 23才の若さで進士の称号を得て、清廉潔白な役人との評判をとりましたが、32才で官を辞し「随園」と称しました。清朝乾隆・嘉慶に独自の詩世界を展開し、時代を代表する文人となりました。著作に『子不語』『小倉山房詩文集』『随園詩話』があります。晩年武夷に遊んだようすを『武夷山記』に表しましたが、料理読本『随園食単』でも、故郷の龍井と武夷のお茶を絶賛しています。 「丙午秋,余游武夷,到幔亭峰天游寺諸処,僧道争以茶献,杯小如胡桃,壷小如香櫞‥‥先嗅其香,再試其味,徐徐咀嚼而体貼之,果然清芬撲鼻,舌有余甘。‥‥故武夷享天下盛名,真乃不忝,且可以瀹至三次,而其味猶未尽。(私は武夷茶を好まなかった。濃くて苦味があり、薬を飲むようであるが所以に。丙午秋、武夷を訪れ幔亭峰天游寺などを参観したが、僧侶や道士が争うようにして茶を献じてくれた。茶杯は胡桃のよう、茶壷の小ささはまるで‥‥、まず香を聞き、それから味を味わう、その素晴らしさをかみしめる。清香と甘い余韻。…武夷は天下に盛名をとどろかせているが、まさにその名を辱めない。三煎いれてもその味なお尽きず。)」 |
| 董天工 | 武夷山出身。清代役人。 24巻からなる『武夷山志』を1751年に完成させました。現在、武夷茶を知るうえで貴重な資料のひとつになっています。 |